フランク・シナトラの知識

フランク・シナトラ / 略歴 / プロフィール / マフィアとの関係 / 私生活 / 音楽 / 日本公演 / 映画 / 関連項目 / 外部リンク

プロフィール


プロデビュー


1915年、ニューヨーク市近郊のニュージャージー州ホーボーケンでイタリア系アメリカ人の家庭に出生した。1930年代初頭、当時ラジオで人気を得ていたビング・クロスビーの歌声に憧れて歌手を志す。中のAFRS時代のシナトラ(左端)とビング・クロスビー(右端)
1935年、20歳の時に地元のイタリア人ボーカルトリオ「ザ・スリー・フラッシズ」に参加、「ホーボーケン・フォア」としてラジオ出演・全米巡業(ただし他のグループ・芸人も一緒の一座であり店頭などで歌った)などを行い後に脱退。バーのラウンジで歌っていたところを見出され1939年には当時大衆的な人気が高かったトランペッター、ハリー・ジェームスの楽団「ミュージック・メイカーズ」の専属歌手としてプロデビューする。その歌唱スタイルはクロスビーの影響下にあるクルーナースタイルであった。1940年にはやはり人気のあったトロンボーン奏者トミー・ドーシーオーケストラに引き抜かれ移籍して大活躍、10代の女性を中心にシナトラへの人気を決定的なものとした。音楽的に、リーダー トミー・ドーシーの滑らかなトロンボーン・プレイを研究し、自らの歌い回しに取り込み、また、世界で最初にマイクロフォンをマイクスタンドから取り外して歌うなど、マイクロフォンの特性を熟知し、自らの楽器とした巧みな歌唱テクニックは、既にこの頃から発揮されていた。

アイドル

1941年12月の日本との間の開戦をきっかけにアメリカも参戦した第二次世界大戦では、決して少なくない芸能人が兵士として徴兵され、また兵役を自ら志願もした。しかしシナトラ自身は出生時、難産であり鉗子のため鼓膜が破れており兵役不合格となった。その為、AFRS(American Forces Radio Service = アメリカ軍ラジオサービス)や慰問部隊の歌手の一人としてアメリカ全土の基地やヨーロッパ各地を回ると同時に、レコードのリリースや映画への出演を続けた。従ってその歌手としてのキャリアが兵役によって中断されることはなかった。アメリカ全土から若者が戦場に赴いたこの時代、若々しい歌声のシナトラは若い女性たちの代替的恋人とも言うべき存在で、「ボビーソクサー(女学生たち)のアイドル」としてその人気は凄まじいものがあった。劇場での公演では、観客の女性に、興奮のあまり気絶し失禁する者すら出たという。この頃多くのスターを抱え、人気の絶頂を誇っていたメトロ・ゴールドウィン・メイヤーのミュージカル映画にも(演技はさして巧くないものの)多数主演し、のちにスタンダードナンバーとして記憶される名曲を多く歌っている。

スランプと復活


元大統領夫人とシナトラ(1947年)
しかしその反動か、第二次世界大戦後の1940年代後半から一時人気が低迷し、1950年には喉の疾患で一時声が出なくなりスランプに陥った。とうとう所属している映画会社のメトロ・ゴールドウィン・メイヤー、レコード会社のコロムビアのいずれからも見放されてしまう。そのまま過去の存在となるかと思われたが、1953年にはフレッド・ジンネマン監督の第二次世界大戦前夜のアメリカ軍兵士を描いた文芸映画『地上より永遠に』の脇役であるイタリア系アメリカ人兵士「マッジオ」役が転機となった。これまで主役級を演じてきたシナトラにとって脇役の演技は格落ちであったにも関わらず、この役にほれ込み相当の運動をおこなった。軍隊内の虐待で惨めに死んで行く兵士を熱演しその結果、アカデミー賞助演男優賞を獲得、奇跡的なカムバックを成し遂げる。なお、この役に採用されるまでのエピソードがマフィアを描いた映画「ゴッドファーザー」で取り上げられている(詳細は後述)。

最盛期


相前後して1940年代から契約していたコロムビア・レコードに代わり、当時は新興レーベルだったポピュラー音楽界の有名レーベルであるキャピトル・レコードと1952年に専属契約。歌手としてのキャリアを積んだ結果円熟の度を重ねた歌唱を発揮し、コロムビア・レコード時代の盟友アクセル・ストーダールとのコンビを解消、新たにネルソン・リドル、ビリー・メイ、ゴードン・ジェンキンズなどの優れた編曲家が指揮するオーケストラをバックに、スタンダード曲や、座付き作者とも言うべき作曲家ジミー・ヴァン・ヒューゼンと作詞家サミー・カーンらによる新曲を多数録音した。こうして1950年代後半にキャピトルから多数送り出されたアルバムは、ジャズ的センスに富んだ質の高いものばかりで、シナトラの最盛期をこの時代とする批評家は多い。またシナトラ+リドルの、シンガー+アレンジャーのコンビネーションは、アメリカのポピュラー音楽史上最高と言われている。なお、この頃ビル・ヘイリーやエルビス・プレスリーなどの出現によりロックンロールの人気が高まったが、シナトラのかつての主なファン層である10代を中心に人気を獲得したロックンロールにシナトラは見向きもせず、音楽指向はそのままに音楽の質を上げたことで、大人になったかつてのファン層を手放さないことで高い人気を維持し続けた。

"シナトラ一家"


元大統領夫人とシナトラ(1960年)
最盛期であった1950年代後半に、サミー・デイヴィスJr.やディーン・マーティン、ピーター・ローフォードらとともに「シナトラ一家(Rat Pack)」を組み、ネバダ州・ラスベガスに自らが所有するカジノホテル、「サンズ(Sands)」を中心にツアーを行ったほか、『オーシャンと11人の仲間』(後にジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、アンディ・ガルシアなどの出演でリバイバルされた『オーシャンズ11(Ocean`s Eleven)』のオリジナル)などの映画に出演した。公民権運動が徐々に高まりつつあったが、まだまだ人種差別が激しく、多くのホテルがアフリカ系アメリカ人を客として受け入れることを拒んでいた1950年代のアメリカで、アフリカ系アメリカ人であるサミー・デイヴィスJr.を一家に入れて「サンズ」のショーに出演させることに反対するものが多かった。しかしシナトラはサミー・デイヴィスJr.の音楽センスを高く評価していた上に、新興移民のイタリア系であることから、自ら人種差別を受けることも多く人種差別を嫌悪していたため、周囲の反対を押し切ってサミー・デイヴィスJr.をシナトラ一家に迎え入れた。しかしその反面、シナトラと仲の良かったアフリカ系アメリカ人ミュージシャンのクインシー・ジョーンズは自伝の中で、シナトラが日常的に人種差別発言を行っていたことを暴露している。

リプリーズ期


大統領(右端)とイタリアのジュリオ・アンドレオッティ首相(左端)とともに(1973年)
1960年代に入ってからは、個人レーベルとして「リプリーズ」を設立、キャピトル時代に比してやや水準は劣るものの、良質なアルバムを多数送り出している。1962年にはワールド・ツアーで初来日し東京でコンサートを行っており、これ以降数度に渡り来日公演を行っている。また映画俳優としての活動も活発に行っていたが、この頃は「演技派俳優」としてその演技が以前にも増して高い評価を受けるようになっており、「影なき狙撃者」などが高い評価を受けたほか、1965年には初の監督作品として「勇者のみ」の監督及び出演を行っている。1966年、「夜のストレンジャー」がグラミー賞を獲得しシナトラ健在を世界中に示した。1969年にはフランスの曲にポール・アンカが英語詞を付けたナンバー「マイ・ウェイ」をヒットさせ124週に渡りシングルチャートに、51週に渡りアルバムチャートにとどまる大ヒットとなった(これは通俗的に流行したことで日本でもよく知られており、シナトラ=「マイ・ウェイ」のイメージが強い)。以降この曲は「ニューヨーク・ニューヨーク」「夜のストレンジャー」に並ぶシナトラの代表曲となった。1971年には一時引退を表明したものの、1973年には再び芸能界にカムバック、以後晩年まで活躍を続けた。1976年にはマルクス兄弟|ゼッポ・マルクスの前妻のバーバラ・マルクスと結婚し、その後添い遂げることになる。

晩年


大統領から大統領自由勲章を受けるシナトラ
1980年代は映画への出演こそ減ったものの、アルバムのリリースや、ラスベガスやマディソン・スクエア・ガーデンなどをはじめとする全米各地や日本やイギリス、西ドイツなど諸外国でのコンサート活動を精力的に行った。なお、1985年にはその長年の活動が認められて、以前カリフォルニア州知事選挙の支援活動を行ったことのあるロナルド・レーガン大統領より大統領自由勲章を授与された。1990年に全日空がニューヨーク線を開設する際にテレビコマーシャルメッセージ|CMに出演、同時に最後の世界ツアーを行い、1991年には横浜アリーナで最後の単独来日、1994年にはナタリー・コールとのジョイント公演を福岡だけで行った。1993年には、ロックンロール界の大御所であるU2のボノや、スペイン人スター歌手のフリオ・イグレシアスなどのスーパースターとの競演アルバム『Duets』2作をリリースし、高い評価を受けるとともに最後の世界的ヒットとなった。1998年5月14日に心臓発作により永眠した。

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